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2024.05.02

選手情報

高校テニスに懸けた富岡保雄が54年の教師生活に幕。清風高校を40年連続全国選抜高校テニス大会出場などに導く

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富岡保雄名誉監督(写真右)と奥様の千津子さん(写真提供:清風高校テニス部OB)

全国大会常連の清風高校テニス部名誉監督・富岡保雄氏が勇退


1976年の創部以来、全国大会で輝かしい成績を残し、プロも輩出してきた大阪府にある清風高校(大阪市天王寺区)。体育科の教員として、そしてテニス部の初代監督として指導してきた富岡保雄氏(81歳)が50年以上にわたる教師生活に幕を下ろし、4月20日には「富岡先生を囲む会」が大阪市内にて行われた。

【画像】「富岡先生を囲む会」の様子

富岡氏は、姉妹校の清風南海高校から30歳の時に清風高校に赴任。軟式テニスの強豪校だったところから一転、オーストラリアでのテニス研修を経て1976年に硬式テニス部へ移行させた。創部からわずか5年。1981年インターハイ団体戦で初優勝を飾って柳川(福岡)の15連覇を阻止すると、翌年の全国選抜高校テニス大会でも優勝。団体の全国タイトルは計7度、準優勝9度という成績を残している。ハイライトは、全国選抜高校テニス大会が始まった1979年の第1回大会から40回連続で出場したこと。これは男女で唯一の偉業となっており、選手が定期的に入れ替わる学生テニスの団体戦で異例だ。

これまで亜細亜大学テニス部の森稔詞監督や茶圓鉄也プロ、井藤祐一プロ、上杉海斗プロなどの選手を輩出してきたのはもちろん、今でも富岡氏の薫陶を受けたOBがテニス業界のみならずさまざまな分野で活躍している。

今年2月、富岡氏は清風高校での半世紀以上にわたる教師生活に幕を下ろした。「良い子どもたちに出会うことができてよかった」と振り返り、5年で強豪・柳川を破って日本一になれたことをうれしい思い出に挙げた。一方、1979年以来インターハイと全国選抜のどちらかで団体戦ベスト4入りしていたものの、1992年の団体戦最高成績はベスト8となったことを悔しかった思い出だとし、これをバネにその翌年にはベスト4になっている。




今回の「富岡先生を囲む会」には全国から100名以上の教え子が出席。「教師冥利に尽きるぐらいうれしい」と懐かしい顔が揃い、頬も緩んだ。「かつてのように高校で日本一にならずしても大学、一般になってもテニスを続けて活躍できるテニスプレーヤーになってほしい」と願うテニス部監督は、息子の宏之氏に引き継がれている。高校テニスで一時代を築いた父の背中を幼少期から見続けてきた宏之氏のもと、清風高校テニス部は新たな一歩を踏み出す。


以下、現監督の富岡宏之氏や主将の立花大和、OBを代表して亜細亜大学テニス部の森氏らからのコメントである。

<富岡宏之(清風高校テニス部監督)>
教師人生、本当にお疲れさまでした。
私は生まれてから人生の大半を父とともに清風高校テニス部で育ちました。家族旅行はインターハイと全国選抜。幼少のころから清風高校テニス部の方々にかわいがってもらい、まるで家族のように過ごしたことを覚えています。合宿は自宅で行い、家族総出で合宿の手伝い、自宅で下宿している生徒もたくさんいました。父の生活は普通では出来ないめちゃくちゃなことばかりしていましたが、すべて生徒のために人のために誰かのためにというのがモットーでした。そんなめちゃくちゃなことまで可能にしてくれたのは家族であったり、周りで応援してくれ協力してくれる方々がたくさんいたことで達成できたことだと思っています。父に代わってお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
現役時代、清風高校テニス部で努力できたことと大学2年生からテニスの指導者として父にいろいろなアドバイスをしてもらったことが、指導者としての基盤になっていることは間違いないと思います。清風高校テニス部に対する愛情は父に負けず劣らず、清風高校の更なる発展に精進していきたいと思います。

<立花大和(清風高校テニス部主将3年)>
今まで長い間お疲れさまでした。私たちにとって貴重な時間をありがとうございました。こういう場面に私たちが一緒に過ごせたこと一生忘れません。総監督が築いてきた伝統を守り、部員全員で全国優勝を目指し、練習に励みます。

<森稔詞(亜細亜大学テニス部監督/1987年全国選抜高校団体優勝)>
まず、富岡先生へ「本当にありがとうございました」とお伝えしたいです。私が卒業してから36年。富岡先生に出会っていなければ「私の今はないですね」と先輩に話したところ「みんなそうやで!」と。
今思い返せば、平凡ではなかった高校3年間が自身の基礎の大きな部分を占めています。一番の思い出は、弱い自分と常に向き合い、身体も心も鍛えられた南海ランニング(姉妹校である清風南海高との往復約40km)。「あきらめない心」を身に着けることができました。
指導する立場になって、人に何かを伝えることの難しさを身に染みている毎日ですが、これだけの卒業生が集まった富岡先生の「教え」は、何なのかをしっかり考えて、少しでも「継承」できるように頑張っていきたいと思います。

<茶圓鉄也(元日本ランク5位/1991年インターハイ団体優勝)>
富岡先生、長い間お疲れ様でした。試合で先生がベンチにいると、とても安心してプレーできたことを覚えています。たくさんの生徒がいて、各々にあった環境を作るのは簡単ではありません。先生を目標に指導者として頑張ります。

<井藤祐一(元日本ランク5位/2004年全国選抜高校個人シングルス優勝>
お疲れ様でした。清風高校に進学し、先生のもとでテニスができて幸せでした。先生は多弁な方ではありませんでしたが、大事な場面や辛い状況の時には、時を問わず話をしてもらったのを覚えています。本当に色々なことを教えてもらいました。テニスだけにとどまらず、人としてどうあるべきかをご教示いただき、成長させてもらえた高校生活でした。
その中でも特に覚えていることは、個人戦で応援に来てもらった全日本ジュニアの決勝戦です。応援の際には傘を上下に動かして応援していただいたこと、今でも鮮明に覚えています。また、お忙しい中USオープンにまで帯同いただき、洗濯など試合に集中できる環境を整えていただいたことは決して忘れません。
私も指導者になり、指導者の難しさを痛感しております。先生の様に愛情、エネルギーがないとできないことなので、先生に指導してもらえた私達は本当に幸せだってたなと思います。
富岡先生、本当にありがとうございました。くれぐれもお体には気をつけてお過ごしください。


<上杉海斗(江崎グリコ/2013年インターハイ個人シングルス準優勝、ダブルス優勝[パートナーは矢多弘樹]>
富岡先生、本当に長い間お疲れ様でした。先生は僕の世代で総監督になられた時でした。先生には本当にテニスだけではなく、人間性においても成長させて頂きました。テニスにかける想いと勝負に対しての熱さは今になっても自分に活きていると感じます。
また、井藤祐一先輩ぶりの優勝がかかった全国大会のシングルス決勝戦で逆転負けした時、「よう頑張った、ご苦労さん」と声をかけていただき、先生のインターハイへ想いを知っていたのもあり感情が込み上げ涙したことは今でも覚えています。今でも忘れない敗戦でした。
プロとして富岡先生の教えを活かして今後も頑張りたいと思います。本当にありがとうございました。


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