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2024.06.18

デイリートピックス

アメリカの会員制クラブで価値観の違いに悩みながらも働くコーチ・綛谷昌生さん「“庭球”の心を奥底に」自身の存在意義を自問しながら日々コートへ

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――テニスも場所が変われば、また違う見方が出てきますね。

「私自身は、中学生でテニスを始めて大学まで続けた。体育会テニスでそれなりに自分自身の中で確立したとは思うのですが、ニューヨークで教えていた時にはそれをフィードバックするというか、いいように言えば恩返しの考え方でテニスに取り組めた。しかし、ここではそれとは違う部分があるなっていう気がしています。そのテニスというものに対する考え方をわかってもらう、彼らに伝えるということの難しさを感じています。あれはもう違うものとして考えないといけない。ある意味ホスピタリティという仕事か、というような。テニスを“仕事”という捉え方をしたのは自分自身も初めてです」

――テニスへの取り組み方を見つめ直す経験ができるところは素晴らしいと思います。

「言葉のハンディがあるのをわかった上で、私を雇ってくれたなとは思っています。ありがたいことですよね。でも根本的な取り組み方と考え方を変えようとは思ったことはありません。ハンディは感じながらですが時給は高いですよ。今年からカリフォルニアではファーストフード店の時給は20ドル(約3,000円)になります。ティブロンのテニスコーチですと、場合によってはファーストフード店の3〜4倍になりますから」

――このクラブのコーチは選手の実績もある経験豊かな方が多く在籍しているのでしょうか。

「僕より一つ年上ですけど、そうは見えないぐらいおじいちゃんに見える。でも、実はマッケンローと同じ年齢で、彼はカリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)でNo.1選手だったとか。全米大学で(マッケンローとフレミンが在籍する)スタンフォード大学に敗れて、彼は準優勝。それぐらい実績のある人です」

「いろいろ話しているとその昔、UCバークレーのテニスチームで殿堂入りしているそうです。レッスンもいい加減だし、コーチングもお世辞にも高いレベルじゃない。しかし、たまにすごいボールを打つことがある。昔のテニスでフラット系のね。クラブのディレクターにいつも怒られているけど、彼は自分のペースを崩さない」

――日本での綛谷さんはどのような“テニス”を身に着けてきたのでしょうか。

「関西学院大学体育会庭球部出身で、大学3年まで(伊達公子さんらを育てた)小浦猛志さん、大学4年の時は細井禎蔵さんが監督でした。当時は創部以来、初めての関西学生リーグ2部時代でしたが、お二人ともよくコートに来て下さいました。技術論よりも精神的なこと、練習への取り組み方を教わりました」

「小浦監督の指導で今でも思い出に残るのは、割り箸を口に咥え素足でコートに立ってボールを打つ練習です。2学年先輩がやられていたのですが、『足の裏で地面をちゃんと捕まえなあかんで』と。そのほかにも、2時間のサーキット練習のメニューを考えていましたね。1面はストローク、このコートはボレー、こっちは2対1の振り回しみたいな練習がメニューになっていました。今では珍しくないですが、当時の練習の仕方を変えたのは小浦さんが初めてでした」

「それともう1つ、選手に練習ノートが配られ、各自がその日に取り組んだことなどを書き込み、マネージャーを介して小浦監督に渡すんです。監督はそれに気が付いたことを書き込み返してくれます。このノートのやりとりも画期的でした、監督と部員の交換日記ですね。庭球部の部員は約30人で十分な練習ができるのは本戦に上がっている選手のみ。コートの周りを部員が囲んでいる中での練習でした」

――日本では「道具を大切にしなさい」と教わりますが、アメリカではラケットは「モノ」なので簡単に投げたり、蹴ったりする光景を見ます。「全てのものに神が宿る」というような考え方が無いので、それはまた人間のアクションとして賛同はしないけれど許容していかなければいけないところもありますか?

「昨今のプロでも道具を大切にしないというか、見ていて不愉快になることが多々ありますよね。ここの子供たちもほんとにラケットを粗末に扱います。それは一言で言えば“テニス”と“庭球”の違いのように思います。“テニス”を“庭球”と訳した時点で脈々と受け継がれてきたものがあります。うちの大学もそうだし早稲田や慶應も”庭球部”。庭球を教わった私としては、そういう部分で考えていくとでもどうしても捨てられないところがある。むしろ捨ててはいけない部分と捨てられない部分があるような気がするんですよね。だからラケットを単にモノとして扱うことには抵抗があります」

「佐藤次郎さんが世界で活躍した1930年代前半、テニスは庭球でしたね。ウィンブルドンでイギリス国王が入ってきたら試合中にもかかわらずひざまずき挨拶する選手もいたそうです。テニスが“庭球道”として日本で根付き、それが脈々と受け継がれる傍らで世界はどんどん変わって行きました。ヨーロッパの選手たちが頭角を現し、彼らは生きるためにテニスをやり、勝つことに執着します。勝てば官軍。品格など二の次の選手たちがどんどん増え、ラケットを壊すことによる負の側面より、ものすごいストレスを感じながらプレーしていることに関して、彼らに理解をすることが必要とする人も少なくありませんね。それでも私には“庭球”が心の奥底にあり、捨てられないものを持ちながら自分の存在意義は何かと自問しながら日々コートに立っています」

――今後の活動について教えてください。

「中学1年でテニス始めたのが1972年ですからね。その時に64歳になってこういう風にテニスに関わっているということは全く想像できませんでした。そもそもアメリカに来たきっかけはテニスじゃないですからね、なのに、最後に残ったのがテニスという。将来的には日本へ帰国し、日本にいる外国人向けに教えてみたいですね」

――貴重なお話をありがとうございました。

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写真=本人提供