全仏オープンを見た父のインスピレーションから始まった姉妹の物語
「愛というのは、最も強いものの一つだと思う。私には姉がいて、彼女は私が経験していることを正確に把握している。言ってみれば、すべてを知っている。彼女は私が負けたあとに話せる唯一の人なの。彼女だけが私の気持ちを知っているから。ほかの誰でもない。彼女だけがわかってくれる」
2014年、セリーナ・ウイリアムズ(アメリカ)が、姉ビーナスの存在について米『スポーツ・イラストレイティッド』誌に語っている。セリーナにとってビーナスは道標であり、目標であり、かけがえのない魂の片割れである。
共に世界ランキング1位を経験し、2人合わせて30回(セリーナ23回、ビーナス7回)のグランドスラム優勝、ツアー優勝は122回(セリーナ73勝、ビーナス49勝)、オリンピックのシングルス金メダルは2つ(シングルスで各1)1億7,500万ドル超の賞金を稼ぎ出している。
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まさに“史上最強”と言うべきウイリアムズ姉妹を育てた父リチャード氏の映画『ドリームプラン』は、明日2月23日、日本で公開となる。この映画は、テニス経験が皆無だったリチャード氏が、娘2人にテニスを教え、スーパースターに仕立てあげていくというストーリー。それは、“アメリカン・ドリーム”を成し遂げる家族の物語である。
父が、テニスに興味を持ったのは、カリフォルニア州コンプトンの自宅で、たまたまテレビで全仏オープンを見たから。
といっても、そのプレーに興味を持ったのではなく、高額な優勝賞金に目を奪われたのだという。そして“この子たちならばできる”というインスピレーションから、四女ビーナスと五女セリーナへの指導が始まる。とはいえ1980年代のコンプトンは、ドラッグと暴力が蔓延する治安がひどい街。公園や公営テニスコートなどは、ギャングに支配されていて、コートでの練習中も、ギャングとのいざこざもあったが、父は娘たちのために立ち向かう。最終的にギャングは、1日に500球を打ち込む練習が終わるまで帰れないといった過酷な練習を行う親子の練習に見入り、警備員を務めてくれたりもしたという(セリーナは練習中に、銃声も聞こえたと、父は心身共にボロボロになったと後に語っている)。
1991年、拠点をフロリダ州ウエストパームビーチに移し、リック・マチコーチの指導を受ける。そしてビーナスが94年10月にプロ入り、そしてセリーナが翌95年10月にプロ入り。しかし、学業も大事にする父の意向もあって、すぐさまツアーに専念とはいかず、ビーナスは97年シーズンから、セリーナはその1年後から本格参戦となる。
ウイリアムズ姉妹がツアーを席巻しはじめる
1997年USオープン、ビーナスはグランドスラム4大会目にして、いきなり準優勝(決勝はマルチナ・ヒンギス/スイスに敗戦)。1998年シーズン、ビーナスは全豪、全仏、ウィンブルドンとベスト8、USオープンではベスト4。セリーナは、全仏でベスト16となっている。
先にグランドスラムを制したのは、セリーナだ。1999年USオープン、準決勝でリンゼイ・ダベンポート(アメリカ/当時2位)に勝利して決勝進出を果たすと、決勝では当時世界1位のヒンギスを6-3、7-6(4)で下して、17歳でトロフィーを掲げることになる。
しかし、“妹に先を越された”ことは、ビーナスにとっては複雑な思いだったという。スタンドで妹の優勝を喜ばない様子をカメラに抜かれたビーナスは、後に「メジャー大会で優勝できなかったことは、つらいことだった。姉として、もっとステップアップして、もっとタフになるべきだったという思いがあった。彼女の優勝から学ぼうと思った瞬間だった」と振り返っている。その思いは翌年、結実する。
ビーナスは2000年のウィンブルドンでグランドスラム初制覇を果たすと、続くUSオープンでも優勝を果たすのだ。
USオープンで優勝した際には、「私は、いつもセリーナに勝ってほしいという思いでいるの。だから、ちょっと不思議な気分でもある。私はお姉さんだから、セリーナの面倒を見なければダメ。私が何も持っていなくてもいいから、彼女がすべてを持っているようにしたいの」と妹を慮った言葉も出している。
2002年は全仏オープンからGS4大会連続で姉妹対決となりセリーナが4大会連続優勝
ここからウイリアムズ姉妹が、そのパワーテニスでテニス界を席巻する時代がやってくる。2001年ウィンブルドンでビーナスが連覇、同年USオープンでは、決勝で姉妹対決を演じてセリーナが優勝。続く2002年は、全仏オープンからグランドスラム4大会連続で姉妹対決となり、セリーナが4大会連続優勝を果たしている。ちなみに、セリーナは、2003年の全豪制覇によって、単複でのキャリア・グランドスラム達成となっている(2012年のロンドン五輪シングルス金メダルで、男女通じて初となる単複でのキャリア・ゴールデンスラム達成)。
まさに順風満帆というべき結果だが、2001年には、インディアンウェルズ大会で悲劇が起きている。
同年の大会。セリーナは準決勝で姉ビーナスと戦う予定だったのだが、姉は足の故障のために試合直前に棄権が発表される。不戦勝で決勝進出を決めたセリーナはキム・クリスターズを倒して優勝。本来であれば称えられるべき優勝者に降り注いだのは、罵声や人種差別的発言だった。観客たちは、ビーナスの棄権を、セリーナの体力を温存させるための策だと勘ぐったわけだ。
「(あの時)観客の99%は白人で、私にブーイングを浴びせた。人種差別的発言もあった」とセリーナは当時を振り返っている。今となっては信じられないような話に聞こえるが、19年前の世界は、そんな傾向もあったのだ(2度と出場しないと大会をボイコットし続けた姉妹だったが、セリーナは2015年に、ビーナスは2016年に大会出場を果たしている)。
そんな影響もあったのか、2004年シーズンは6年ぶりに姉妹がグランドスラムで優勝を果たすことはなかったが、2005〜2010年にかけては、2人で単複合わせてグランドスラム16冠とコンスタントに勝利していく。
その後もセリーナは、“史上最高のプレーヤー”の名にふさわしい活躍で毎年グランドスラムを制覇していく。2015年シーズンには、全豪、全仏、ウィンブルドンと3大会連続で優勝するなど、30代に入っても変わらない強さを発揮。一方、ビーナスに関しては、2011年に自己免疫疾患のシェーグレン症候群(涙や唾液を作っている臓器を中心に炎症を起こす)を発症。その後も、選手としてプレーし続けながらも、深い霧の中を歩むような時間が続く。
「私たちの夢がかなった」
2017年全豪で8年ぶりに
実現した姉妹でのGS決勝
そんな中で迎えた2017年の全豪オープン、8年ぶりに姉妹でのグランドスラム決勝が実現する。「2人で決勝に行くという私たちの夢がかなった」と語ったセリーナ。両者の戦いは、第1セットこそ乱調の展開となったが、第2セットは共に落ち着きを取り戻し、質の高いボールを打ち合う長いラリーが続く見応えある展開となる。そして第10ゲーム、セリーナの渾身のフォアハンドを、ビーナスがロブで対応したものの、これがサイドアウトとなり、セリーナが6-4、6-4で23度目のグランドスラム制覇。決勝を戦い終え、表彰式を待つビーナスとセリーナは、この上なく幸せそうな、穏やかな笑顔をたたえていた。
41歳のビーナスと40歳のセリーナ、女子ツアーでも最年長となる2人だが、そのストーリーはまだエンディングを迎えていない。女子ツアーに“パワーテニス”をもたらした両者、その伝説の終焉はいつになるだろうか。
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