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2024.12.25

デイリートピックス

「大人が夢を語れ!」柳川高校復活のきっかけをつくった“絶校長先生”古賀賢校長・理事長。テニスでは「選抜から全米オープンジュニアチャンピオンを出す」

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――学校改革には大きなエネルギーが必要だと思います。ホームページを拝見すると生徒には選択肢があり大学のようです。アイディアは何処からくるのでしょうか。

「発想は、みなさんが『こんなの無理だろう』『こんなのできない!』と思うところにしかチャンスはない!と全校朝礼で伝えてきましたし、私がやり続けてきたことです。柳川高校の隣には創立200年を越える進学校があり、そこをどうやって越えるかというのを進学コースを作った時に考えました。現在、『グローバル学園構想』(全生徒の三分の一を世界から集める)、『スマート学園構想』(メタバースの学校構築中)、そして『宇宙教育』(宇宙修学旅行を目指していく)という柳川高校にしかない教育で勝負しています。勉強のその先にある『プラスアルファの創造性が必要だ』という時代にフックがかかり、マッチングしていったのではないかと思います」

「親御さんたちも『今までと同じ教育を受けていていいのだろうか?』と思っていたところに柳川高校の教育がマッチし子どもたちからも『この学校に通いたい!』となったのではないかと思います」

――柳川高校にいる生徒の家庭環境もさまざまですし、その中で学校が掲げている3つの目標に向かうことは容易ではないと思います。著書にもあるようにそれは古賀校長が夢を語るところから先導してきたところをお話しいただけますでしょうか。

「校長が『夢を語る』ことが大事だと思ったきっかけは、イギリス留学時代にサンデーチャーチ(日曜礼拝)に行っていた時の経験にあります。牧師さんがいろんな話をする中で、世の中のことや愛のこと、家族のことなどを話す姿が印象的で今でも覚えています。子供たち(柳川高校の生徒)に私が何を伝えたいかと言えば、大人が一生懸命に夢を語る姿と大人が夢を追いかけている姿です。私たちが掲げる『宇宙修学旅行』というのは本気でやっているわけで、『夢を語って実現できるんだ!』という姿を見せ、子供たちも実現に向けて動いている実感があると思います。先生たちも生徒と同じように影響を受けていて、『夢を語ることが恥ずかしい』とは感じなくなっていると思います。トップがそういう背中を見せることで、現在の校風へと変化して行ったように思います」


古賀校長のジュニア時代の写真

――古賀校長はジュニア時代に将来を嘱望された選手の1人だったように思います。日本のジュニア選手をグランドスラムに引率したりする中でどのような視点で選手を見ているのでしょうか。

「日本には素晴らしいコーチの方々がたくさんいらっしゃいます。私自身は技術の指導者ではないので、教育的な視点から見ています。現在の日本のジュニア、部活の選手の実力は十分世界に通用すると思っています。日本的な言い方をすれば心技体のうち、身体とスキルの部分では戦えると感じています。ですが、心の部分、『マインドと経験の差』は世界との大きな差を感じますね。私は教育的な立場でしかお話ができないのですが、学校教育や家庭教育、コーチングの環境でどれだけ世界を身近に感じさせるか、というところが大切なのではないかと思っています」

「みなさんも記憶にある言葉で野球の大谷翔平選手がWBC決勝戦前に『憧れるのをやめましょう』と言ったあの一言が日本の教育を象徴していると思っていて、日本人選手が世界で戦っていく上で乗り越えなければいけないマインドだという風に感じています。彼が日本とアメリカに住んで勝つために必要な一言だと気づいたのではないでしょうか。テニスは個人競技であり、コートに入れば一人でいろんなことを決断しなければならず、そういった面で見ると日本人にはまだまだ弱い部分もあるのではないかと思うこともあります」

――古賀校長ご自身がイギリス留学当時にチャレンジャーなどツアーを回っていた頃に比べ、技術面やマインドなど当時と現在の違いのようなものを感じることはありますか。

「私が当時イギリスに住んでいながらも、世界の舞台というのは存在が遠かったですね。テニスの試合をする前にマインドで負けていた感じがありました。ヨーロッパのサテライトを回っていてもどこか心が萎縮してしまい、近づくことができなかった。しかし、30年経った今、ジュニアを含めた選手のみなさんにとって世界との距離感が縮まってきていることは確かだと思います」

――それでもパット・キャッシュ(1987年ウインブルドン優勝)とも打ったことがあるとか。

「オーストラリアの選手と練習をしている時に来られて偶然、彼が現役で一番強い時に練習してもらうことができました。15分か30分ぐらいの練習時間でしたが、私が一番上手になった瞬間だったかもしれません。彼に『もう一度練習して欲しい』と言われたいじゃないですか。当時のアジアはテニスの後進国であったし、私自身、練習相手を見つけるのに大変でした。そういう中でパット・キャッシュと練習できた時には、『下手に思われたくない』『上手く打とうとする』などいろんな意味で一番人間の醸し出すものを自分の中に感じました」

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写真=本人提供