――テニス留学後にアメリカで就職したいと考えている学生がいるかもしれません、よろしければ簡単に職歴などお伝えいただけますか?「大学を出てから初めての仕事はテレビの音響技師でした。その会社のインターンの面接で最終選考の3名に選ばれインターンを3ヵ月した後にアメリカ人ではない私が採用されました。他の2人が専門知識など持ち合わせており、アピールしながら仕事をするのに対し、私はボスに『ここで座ってみていろ』と言われたことだけをきちっとこなすことに徹していました。そのボスが私を選んだ理由として『技術的なことは覚えれば誰にでもできる、だがお前は人当たりがいい、そして言ったことをきちんとするから』と言ってくれました。『ピープルスキル(People Skills)が良いからあのインターン(和田氏)を採用した方が良い』と色々なプロデューサーや業界関係者が私を推薦してくれたみたいです。人が良くないと最終的に会社にとってマイナスにしなからないと言っていただきました」
「その次に転職をした先は、その正反対で金融情報会社で現実的なことしか言わないボスの元で7年間働きました。口は悪いけど決して間違ったことは言わない人でした。ですが、それで辞めていく人は多くいました。私はビザの関係で辞めることができず、奴隷のような感じです(笑) 一番最短で3時間で辞めた人がいるぐらいですから厳しいのですが、永住権の申請をしてくれたのは彼なので世の中はわからないものです。ある年、会社の業績が悪く、一時解雇されそうになった時に彼と交渉をして妥協案を提案し自分をアピールしたことがあります。30人ぐらいの中小企業だからこそ融通が利くとその時に実感しました。大企業だと通達が来たら交渉の余地もありません」
――リーマンショック(2008年)などもあり大変な時代を生き抜いてこられたと想像します。「でも、その中にはいつも“テニス”があり、救われました。他にも友達はいましたが、テニスで作られた友達はたくさんいるんですよね。岩本功ジュニアデ杯監督が良い例ですが、どんどん派生していて多種多様なバックグラウンドの方と出会えることができました。また、(昨年母親が他界し)辛い時もスクールに通いました。辛いけど助けてくれる、テニスをやっている間はその世界に居させてくれる。気心知れた友達や仲間とテニスやっていて良かったと思ったことは数知れません。もちろん、人によって趣味は違いますが、その趣味に助けられることは少なからずともあるはずです」
――テニスへの感謝の気持ちから毎年全米オープンを観戦に来られるのですね。「私はテニスに対して恩返しするものがあります。(全米オープンなどに出場する)ジュニアたちが来る時には、できる限りサポートしたいと思っています。岩本監督が来られるということもありますし、テニスのおかげということもあります。現在は基本的に東京に住んでいるので日本でのトーナメント、それがどんなに小さい規模であっても、誰か知っている選手がいればからできる限り応援しに行くことにしています。私が日本代表になって金メダルを取ることはできないので、国内外問わずテニスに貢献している選手、関係者の助けになればと思います」
「全米オープンジュニアでも仕事の合間を縫って、知り合いの選手が勝ち残っている限り応援に行くようにしています。何か必要なものがあるなら調達したり、変な話、洗濯までしたことがあります(笑)何週間も遠征してここに辿り着いたらしく、試合や練習でコインランドリーにも行けない、といった状況でした。それもこれもテニス、そしてテニスの世界を30年以上に渡って見せてくれた岩本監督のおかげですね」
――接していたジュニアで印象に残っている選手はいますか?「西岡選手のジュニア時代は凄かったですね。理由としては“絶対負けたくない感”がにじみ出ていたからです。当時から観戦していてテニスが楽しいし、一生懸命なんですよね。たぶん彼は反骨精神の塊だと思うんですよ。それが彼の試合に勝つ原動力であったと思います。当時、彼の覇気のあるプレーを気に入っていたのですが、巷ではプロでやっていくには身長が小さいのではないかという声が大半でした。そんな中、『今日負けると命を落としかねない』ような雰囲気でした。その反動が良くも悪くも気性の激しさに出るのかと思います」
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ジュニア時代の内田海智(写真左)や西岡良仁(同右)らと
「フロリダ遠征をサポートした際、横に座っていた東ヨーロッパの出身のコーチに日本人選手の印象について聞く機会がありました。彼は単刀直入に『綺麗なテニスをするが強くない』ということを話してくれました。『日本人選手には強い子もいると思うが、今日負けても屋根のあるところで寝れる安心感がある。この子たちは練習へ行くにも戦車の横を通り、スナイパーがたくさんいるような国から来ている。必死になって試合に勝ち、プロになって親を国外に出したいという使命がある』と。正直、それを聞いた時はショックでしたね。生活に恵まれていない国の選手は、それをエネルギーにして勝っていくことをテニスから見ました。トッププロの中にもそういうところをくぐり抜けてきた選手はいるはずで、ジョコビッチもその一人ですよね。その選手たちがどういう環境から育ってきたのかということにも興味が湧いてくるところです」
――ハングリー精神という捉え方がスポーツを強くすると。「ジュニアの引率のお手伝いをしていてよくジュニアに言っていたことは、一般的にテニスはお金がかかるスポーツだという自覚を選手に伝えました。空気を入れることができるボールとゴールがあれば出来るバスケットボールなどと比べ、消耗頻度の高いラケットやシューズがあること、ガットが切れても張り替えできること、断続的に新しいボールだって必要でそれを主に金銭でサポートしてくれる御両親への感謝を忘れないで欲しい、と言ったことがあります」
――アメリカで生きていくということは、どういうことなのでしょうか?「人のことを考えすぎない方がいいと思うんです。『こうしたら悪いんじゃないか?』とか多すぎる傾向にあるように思います。そして、言葉が上達すると文化が見えるんです。日本から来て、自分の名前だけ言って挨拶している程度ではすべてが美しく楽しく感じますが、言葉を覚えて会話ができてくると意思表示の仕方がわからなくてたじろいでしまう。『食べたいの?』『食べたくないの?』みたいな話まで、どうしてほしいのか言ってくれないと相手が困るという視点は必要です。テニスで言う「イン」「アウト」なのかハッキリすると言うのが、こちらの生活ではとても大事なポイントかも知れません」
「それから、暮らせばその土地の汚いこと、嫌な気質も見えてくるものです。そんな時にそれでもここに居続けて頑張ろうと思うか、帰国するかの葛藤に苛まれるわけです。もちろん、それは日本人コミュニティーにいるのではなく、現地の文化や民族にどっぷり浸かっての話です。私は米国に行って2年半くらい親と電話した以外、日本語を喋らない時もありました。辛い時もありましたが、それが文化を理解する上で一番の近道ですし、辛さよりそれを楽しんでいたように思います。その経験がのちに生きてくるわけです」
――テニスを応援してくださる方や企業の方が投資先として広がっていくことについてはいかがでしょうか。「テニスって投資先として難しいスポーツです。テニスが大好きな私が冷静に見てもメジャーなスポーツでもないんですよね。一般的に頭に思い浮かぶ、将棋で言えば藤井聡太七冠や野球の大谷翔平選手、じゃあ日本の有名なテニス選手で誰を知っているかと言えば松岡修造さんと錦織圭選手がメインでないでしょうか。西岡選手がアトランタのツアー大会で優勝してもテレビではあまり出ない。正直、マッチポイントの瞬間だけでも出して欲しいですよ。いつもオリンピックや野球の話題が独占してしまいますし、その波がテニスまで来るにはどうするかではないでしょうか」
「それはやっぱり西岡選手や望月慎太郎選手をはじめ、坂本怜選手を筆頭に若手の活躍に期待したいですね。しかし、メディアや情報発信源がもっとテニスを盛り上げていかないと。私たちの世代が高校生の頃は松岡さんが“日本人として”活躍し、テニス少年に『自分も世界でやってみたい』という夢を与えてくれましたし、誰でもジョン・マッケンローやビヨン・ボルグの名前は知っていた。メジャーなスポーツの一つで、地上波でやっていた影響もあり、誰でもラケットを持って街を歩いているようなあの雰囲気を出さないと層の厚さは出てこないと思います」
――日米双方の違った視点からご意見を伺うことができました。ありがとうございます。