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2021.06.05

メーカーズボイス

自由闊達でユニークなテニスマン集団「テニック」という会社<世界中の優れたテニス用品を提供することが私たちの務め>

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ボルグ、マッケンロー、コナーズたちがいて
テニスがおしゃれで憧れだった1980年代

日本には、テニスブームが2度あったと言われている。1度目は今上天皇・皇后陛下による“テニスコートの恋”が大きな話題となった1960年頃。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、高度経済成長期がはじめのころで、人々の生活が徐々に豊かになってきていたころだ。1965年に東京オリンピックが行われ、数十万円もするカラーテレビが普及する前のことである。
テニスというのは、まだまだ上流階級のためのもので、一般市民が簡単に楽しめるようなものではなかった

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そして2度目のブームと言われるのが、1970〜80年代。といっても、当初はスポーツそのものがブームということではなく、フォーカスされたのは“ファッション”が若者に受け入れられて、である。そんな流れもあって、漫画『エースをねらえ!』(1973〜1975年、1978〜 1980年まで『週刊マーガレット』に連載)が大人気となる。主人公の岡ひろみの才能に惚れ込んだコーチの宗方仁による猛特訓が行われ、そこに“お蝶夫人”こと竜崎麗香がいて、岡を支える藤堂貴之がいる。若い方にはわからないが、これがおもしろかった。大学には無数のテニスサークルが生まれ、テニススクールが出来始めたのが、そのころだと言われているので、テニスを文化として日本に根付かせた時期と言っていいだろう。




ちなみに1982年1月4日付けの男子世界ランキングを見ると、1位ジョン・マッケンロー(アメリカ)、2位イワン・レンドル(アメリカ)、3位ジミー・コナーズ(アメリカ)、4位ビヨン・ボルグ(スウェーデン)、5位ホセ・ルイス・クラークがトップ5、6位にギレルモ・ビラス(アルゼンチン)、12位にヤニック・ノア(フランス)がいる。映画にもなったボルグとマッケンローによるウィンブルドンの戦いは1980年大会である(81年も決勝で相まみえている)。


1982年、スラセンジャーの営業をしていた
髙松氏によって「テニック」は設立される

前置きが長くなってしまったが、今回ご紹介するテニス専門の卸問屋「テニック」が設立されたのは、1982年だから、テニスがブームの中で誕生した会社。ウィンブルドンブランドとして知られるSlazenger(スラセンジャー)ブランドの営業職を9年経験していた髙松正男氏(現同社会長)により設立された。





大阪に居を構え、当初は「関西を中心にテニス専門店の顧客を増やし続けていました。ちょうど、人々がスポーツショップではなくテニスショップというオシャレな店でテニスラケットを購入しだした頃で、雨後の竹の子の様にテニスショップがオープンしていたころでした」と当時を振り返る髙松氏。

一つ興味深いのは単に卸問屋というわけではなく、テニス文化に関わることをしてきた点だ。西日本の多くの専門店で受け入れられた1992年には、何人かのストリンガーがテニックの事務所に集まり、アメリカにあるUSRSA(全米ラケットストリンガーズ協会)の日本版を作るべきだと協議。熱い情熱を持って「日本ストリンガーズ協会(JRSA)」が作られている。

テニスショップができていったこともあり、日本ではようやくストリンガーの位置付けらしいものができ始めた黎明期だったが、既にアメリカではUSRSAという優れた組織があり、そこではテニスショップの運営や接客技術から正しいストリンギングまでをテストする事で技術向上を図っていた。そのストリンガーの頂点にはMRT(マスター・オブ・ラケット・テクニシャン)という最高位の熟練者がいて、彼らがグランドスラムのストリンギングを担っていた。

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