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2022.12.27

選手情報

[追悼]ニック・ボロテリー氏に愛された日本人コーチが語る偉大なコーチの本当の姿<前編>「錦織圭という存在で日本のテニスが認められた」

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――山中さんとボロテリーさんの最初の出会った時のことを教えてください。

山中「僕が17年前に初めてここ(IMGアカデミー)に来た時にお会いしました。もちろんニックさんは僕のこと知らないですし、『日本人がやってるな』ぐらいな感じでした。

ただ、(錦織)圭の活躍によって日本人に対しての態度が少しずつ変わり、その後も選手は続いてくれていたのが大きかった。でも、一番は圭ですね。やっぱりこの社会において、認められた瞬間に雰囲気が変わってくる。“錦織圭”という存在、彼が18歳で『デルレイビーチ国際テニス選手権』(2008年)に初優勝した時が、日本のテニスがIMGで認められた瞬間でした。

それでも“錦織圭”というだけであって、僕のことはまだウェルカムな感じではなかったです。ニックにしてみれば『(山中コーチが)居るな』ぐらいの感じでしょうね。

いつも朝練でインドアコートを使うのですが、朝6時からやっているのは僕とニックしかいなかった。そこは、ずっと見てくれてたのかもしれないですね。圭に終わらず、選手のみんなが頑張ってくれて、在籍して10年経ってから初めてニックから名前を呼ばれました(それまでは「コーチ」としか呼ばれず、初めて「ナツオ」と呼ばれた)。

そこからニックとの距離が一気に縮まって、西岡(良仁)や望月(慎太郎)、他の選手のこともたくさんアドバイスをくださいました」

――世界ランク1位を10人も育てたボロテリーさんの指導を、山中コーチはどのようにご覧になっていましたか。

山中「やっぱり『眼』が良かったですね。選手を見て、良くも悪くも何にインパクトがあるのかを見つけるのが上手い。例えば、一般の人だと何かが原因で上手くなった気分になる、ということがあるんですけど、それが何であるかのポイントを見つけるのが、ニックの場合は上手かった。選手の強化という世界の場合には、選手の何に対し、どこをクリックするといいきっかけを掴めるかという、ワンポイントアドバイスをしてくれるのがすごく良かったですね」

――以前、望月選手に対してもアドバイスをいただいたという話をお聞きしましたね。

山中「まさにそうですね。(ニックからは)『これは特殊なテニスだから、(望月は)それを伸ばしていくしか可能性はない。しかしその分、穴も目立つし、それを直そうとしてくる人も出てくると思うが、右から左に流しておけ』と、僕にも望月にも言っていました」

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